千利休から学ぶ【守破離とは】

こんにちは、「学ぶことは真似ることから」まねこです。

今回は、学校の教科書にも登場する千利休の茶道の教えから学びます。

日頃の勉強への望み方に活かせることがあるはずです。ご参考にしてください。

千利休から学ぶ【守破離とは】

千利休は”茶人”として知られていますが、ただお茶を入れる人ということではありません(^^;)

茶道の大成者であり、その道を極めた人です。

※茶道の”道”
”道”とはもともと「体系」という意味があります。
湯を沸かし、茶をたて、振る舞う。
茶道具、茶室の空間、進行する時間などが芸術とされ、
この芸が体系化され伝授されてきました。

千利休は簡素簡略の”わび”を重視した様式”わび茶”の完成者です。

しかし、茶人がなぜ重要で教科書に載るほどなのでしょうか。

これには、当時の政治と文化の深い関わりがあります。

茶人がなぜ教科書に?【お茶と政治】

戦国時代の大阪の堺を支配下においた織田信長は、茶の湯に大きな関心がありました。

茶道具を収集する「名物狩り」で、貴重な茶器などを手にし、自身の権威を示すことに役立てたとされています。

貴重な茶器1つは一国一城に値するほどのもので、今では考えられないほどの価値がありました。

織田信長は、結果を出した家臣に恩賞として茶道具を贈呈。また、信長の茶会に招かることは、家臣にとって最高の名誉でした。

”お茶”という文化を政治利用することは、統治することに大きく関わっていたのです。

したがって、大阪・堺の「茶の湯の師匠(茶頭)」であった千利休は、織田信長の茶会でお茶の指南役となるなど一目を置かれていたのです。

千利休の生涯

では、簡単に千利休がどのような人生を歩んでいたとされるのか見てみましょう。様々な説もあり不確かなことも含まれますが、ざっくり確認していきましょう。

千利休の生涯
  • 1522年
    大永2年
    大阪・堺の商人のもとに生れ育つ

    幼名は田中与四郎、””は祖父田中阿弥に由来、南宗寺で禅の修行中”宗易そうえき”という名を授かったとされる。

    千宗易から”利休”となるのは、町人の身分では茶会に参内できないため正親町天皇が与えたされる。

    家庭は高名な商家で、貸倉庫や運輸などで裕福であった。

  • 1540年
    天文9年
    茶の湯の第一人者武野紹鴎たけの じょうおうに師事

    茶会の儀式的な形より”茶と向き合う精神”を学ぶ。23歳で初めての茶会を開く。

  • 1569年
    永禄12年
    堺が織田信長の直轄地へ

    織田信長に茶頭(茶の湯の師匠)として召し抱えられ、茶の腕前を認められる。信長主催の茶会での指南役となり、家臣からも一目置かれる存在になる。

  • 1583年
    天正11年
    豊臣秀吉にも仕える

    豊臣秀吉の茶会にも招かれる。大坂城内の庭園に2畳の茶室が作られ茶庭を生み出す。

    その後正親町天皇への禁中献茶に奉仕し”利休”なる。

    黄金茶室の設計、大規模な北野大茶湯を主管、3000石を与えられるなど名声と権威を誇った。

  • 1591年
    天正19年
    豊臣秀吉の命で自害へ

    豊臣秀吉の怒りを買い切腹に追い込まれる。享年69歳。

※なぜ豊臣秀吉の逆鱗に触れたのか?
千利休が切腹に至る理由は特定されていません。
・「派手好きな秀吉」と「わびを重んじる利休」との対立説
・「黄金茶室」「大規模な北野大茶湯」などが
”わびさび”を重視する利休の不満となった説
・利休が茶を利用し私腹を肥やしていた説

千利休の美学

織田信長・豊臣秀吉をはじめ多くの人に認められた、千利休の”茶”の美学の一端を知れるエピソードがあります。

  • 二畳の茶室「待庵たいあん」(国宝)

限界まで無駄をそぎ落とした茶室となっており、間口が狭い入り口は頭を下げ這わなければ入ることができません。豊臣秀吉などの武士も刀を外し、茶室という空間では平等な存在となることを意味していました。

  • 掃除を終えた庭に落ち葉を落とす

落ち葉で散らかっていた庭の掃除を終えると、あえて落ち葉をぱらぱらとまいたとされています。少しの落ちががある方が自然で美しいという美的感覚を持っていました。

  • 豊臣秀吉を茶会へ招待

千利休は、朝顔が美しいので豊臣秀吉を茶会に誘いました。しかし、朝顔はことごとく切り落とされており秀吉は落胆しました。しかし、茶室に入ると一輪の朝顔が生けてあり、秀吉は一輪であるがゆえの美しさに感銘を受けたそうです。

千利休の美学は、「利休道歌」と呼ばれる利休の教えを和歌の形にしたものから知ることができます。

利休道歌より学ぶ【守破離とは】

「利休道歌」とは茶道の精神、点前たてまえ作法の教えなど初心者にも分かりやすく歌にまとめたものです。「利休百首」とも呼ばれ100の和歌があります。

最初の和歌は以下のような和歌になります。

 その道に
入らんと思ふ
心こそ
我身ながらの
師匠なりけれ

最初の和歌は、学ぶ者の心構えの教えです。

※解釈
自ら学ぼう志すことこそ
上達の第一歩であり
自ら学ぼうとする心こそ
寄り添う師匠である

いかなる勉強でも、主体的な学びこそ最も効果的です。すぐれた教材、教育サービス、講師を追い求めることも悪くはありませんが、自ら学ぼうする姿勢がなければ全て台無しです。

どんな分野を学ぶにしても、上達のコツは、自ら追い求める姿勢を貫き続けることですね。

守破離とは

特に「利休道歌(利休百首)」の100首目の和歌を紹介します。

規矩きく作法
り尽くして
るとも
るるとても
本を忘るな
※解釈
先人の教えを徹底に守り
師匠の型から旅立っても
根源の精神を見失ってはならない

上の和歌の3つの漢字(太字)から順に『しゅ』と呼ばれています。

茶道だけでなく、武道などの芸道や芸術の師弟関係を表したり、修業において使われる言葉です。

師匠や指導者の先人の方法を学び、真似をして自分のものにする。既存の「」を徹底的に取り込んでいく段階。

先人の「」を学び取り入れていき、自分に合った方法を模索し試すことで、自分独自の方法を生み既存の「」を破る段階。

先人の「型」と自分が生み出した「型」を自在に操り、既成概念に囚われないまったく新しい道に進む段階。

勉強においても、まずは成功者や経験者の知恵を徹底的に真似をするのが良いでしょう。

勉強法などを先生、塾・予備校の講師、先輩などからヒントをもらう。やり方を真似する。

真似をして勉強しながら、常に自分に合ったより効果的な方法を探り試し続ける。これを繰り返して行くことで、「もっとこうした方がいいんじゃないか」と思えてきます。

いきなり、先人の勉強法を否定するのではなく、やり込んで、良い点悪い点を明確にしましょう。

自分オリジナルの方法はその後でも遅くありません。

では、今回は以上になります。

ぜろから発想したり創造することはなかなかできることではありません。

新しい発想や創造は、何かしらのヒントや選択肢、知恵から生まれることが多くあります。

まずは既にあることを学び、その後自分の考えを試してみてはどうでしょうか。それでは(^^)/